グラスゴーが与えた日本への贈り物 ”エンジニアの思想” 

ここのところ修士論文の一貫としてグラスゴー流域の状況を眺めている。一方、食事などの時間を使って、日本の近代を追いかける、という趣味が肥大化を続けている。(と言っても、NHKの関連番組を見ているだけだが。)先日、たまたま、グラスゴーと日本を結びつける面白い人物が目に飛び込んでて、思わず記憶に留めておきたくなった(「明治」 第二集 模倣と独走~外国人が見た日本~ 2005.4.16より)。

 

Henry Dyer(ヘンリー・ダイヤー)というグラスゴー大学出身者であるが、東京大学工学部の前身である工部省工学寮工学校の初代教頭を務めた人物である。教頭の期間は、1873年から1882年と、およそ10年間に及んでおり、彼の指導のもとで多くのエンジニアが育っていったこと、彼が大学に残したその思想、を思えば、貢献は計り知れない。

 

現在のグラスゴースコットランド(Source: Glasgow Tourism and Visitor Plan

 

彼は、当時グラスゴー大学で学業を勤しむ中、25歳の頃、日本お抱え教師の打診を受けている。当時、彼の指導教官であった William John Macquorn Rankine(ウィリアム・ランキン)は、グラスゴー大学内で、科学(サイエンス)分野に対して、工学(エンジニアリング)分野が十分にその価値を認められていなかったため、工学部設立に向けて奔走していた。日本にも伝えた、エンジニアが社会を変革を推し進める旗手になる、という”エンジニアの思想”は、ランキンから受け継いだものとも言われている。この思想は、造船業で繁栄を極めたグラスゴーのもとで培われた考え方だろうことを思うと、地域が創り出す思想の面白さを感じてしまう。

ダイヤーがみた日本人に対する評価(当時の日本最優秀の学生達なのだろう)は現代にも通じるもので非常に面白い。彼は、こう記している。” 日本の学生は、何でも本から学ぼうとし、それよりもはるかに大切な観察と経験を疎かにする傾向がある。として、” 工学に携わる人は、どんなに立派な理論を知っていても、知識だけの人にはなってはいけないし、また、どんなに器用でも、無知であってはならない。”としている。

 

偉大な考察・思想であるとともに、これをもとに、工学寮工学校でのカリキュラムの中に、1年間に渡る実技期間を組み入れ、知識・理論のみではなく、”身体”(実践、観察を伴うもの)が組み込まれることとしたとされている。

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ヘンリー・ダイヤー写真  (Source: The University of Glasgow )

彼の薫陶を受けた生徒の一人に、琵琶湖疎水を設計・施工した田邊朔郎がいる。彼は、後に日本初とされ当時世界でも最先端であった水力発電所の建設などを果たすなど、日本の土木工学へ多大なる貢献を果たしている。彼が工部省工学寮工学校の卒業論文として、記した琵琶湖疎水計画は、そのまま実現に至るのだが、日本にとって経験の無かった、2,400mに及ぶ直進の掘削を必要とし、それは当時、銀鉱山などで用いられていた掘削技術を超えるものであった。そのため、地下へと続く竪穴の坑道を作る工夫などが取り入れられ、最終的には日本人のみによって完成まで至ったとのこと。

 

ダイヤーが残している彼の言葉が紹介されていたが、日本人にとってはとても誇らしい。

”これまでさんざん言い古されてきた、「日本人は非常にモノマネが巧みだが、独創性もなければ偉大なことを成し遂げる忍耐力もない」といった見方は、余りにも時代遅れというものである。” (大日本 ―技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像 ヘンリー・ダイヤー

ここから日本全体を推測することなどできないが、当時から日本人の中にあった不思議な力というものに、気づかされるかもしれない。未だに日本の製造業の中で息づく現場主義という考え方は、彼が残した”エンジニアの思想”の香りを未だに残しているものかもしれない。